日本医師会雑誌第130巻第5号754-758

性同一性障害の現状と特例法

針間克己


キーワード
性同一性障害 性別適合手術 性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(第2版) 性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律
 
はじめに
性同一性障害をめぐる医学的、社会的状況はここ数年で大きく変化している。1998年、埼玉医科大学で初の公式に知られた性別適合手術(性転換手術)が行われて以来、埼玉医科大学および岡山大学で行われた手術例はあわせて40例を超えている。主要医療機関の受診者も合計で2000名を超えた。法的には、性同一性障害を抱える者の戸籍の性別をいかに扱うかが議論されてきたが、2003年7月16日、「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」が公布され1年後の2004年7月より施行されることとなった。本稿では、性同一性障害の概念、わが国における歴史、現状について述べたあと、「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」の紹介と若干の考察を加えたい。
 
1.概念
性同一性障害は、身体的な性別(セックス)と心理的な性別(ジェンダー・アイデンティティ)が合致せず、そのことに苦悩している状態である。表1に示す米国精神医学会の作成したDSM-IV-TR(精神疾患の診断・統計マニュアル)1)の診断基準を満たすとき、性同一性障害と診断される。
諸外国の統計によれば、おおよそ成人男性の3万人に1人、成人女性の10万人に1人が性同一性障害であるという。日本では、1997年以前には医療機関を受診することは乏しかったが、1997年以降は急増し、2003年2月までに主要医療機関を受診したものは合計で約2200名である。同一の患者が複数医療機関を受診することも多いので、実数は1000から1500名程度と思われる。男女比はおおよそ3対2で男性受診者がやや多い。
 
2.わが国での歴史
 戦後ある時期はわが国でも性同一性障害への治療は行われたいたようである。しかし、1969年、いわゆる「ブルーボーイ事件」2)が起こる。このブルーボーイ事件とは、ある産婦人科医が3名の男性に対し、睾丸摘出、陰茎切除、造膣手術などを行ったことに対し、優生保護法(現在の母体保護法)違反の判決が下ったものである。この判決は、性別適合手術が正当な医療行為と評価されるには一定の条件を満たさないといけないが、この産婦人科医は満たしていなかった、という趣旨のものであった。しかし、「優生保護法違反」という結論だけが一人歩きし、わが国の医学界で性同一性障害への治療が長らくタブー視されることとなった。
 その後、30年近くの時を経て、1997年、日本精神神経学会 性同一性障害に関する特別委員会が「性同一性障害に関する答申と提言」3)を発表した。これは性同一性障害を治療するにあたっての医師の守るべき治療指針を示したもので、これを遵守すれば、ブルーボーイ事件で示された、正当な医療行為としての条件もクリアするものである。これを受ける形で、1998年埼玉医科大学で性別適合手術が公に知られる中、実施された。その後、岡山大学医学部でも、性別適合手術を含む性同一性障害への治療が行われるようになった。2003年5月までに埼玉医科大学、岡山大学両大学で合計40例以上の手術(乳房切除術を含む)が行われている。また、札幌医科大学でも、現在治療の実施を準備中とのことである。なお、「性同一性障害に関する答申と提言」は2002年に臨床経験の蓄積を踏まえ、より現状に即した「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(第2版)」へと改訂4)されている。
 
4.性同一性障害を有するものの戸籍訂正
(1) これまでの状況
 性同一性障害を有するものは、医学的な身体の性別変更だけでなく、戸籍上の性別の訂正も望むことがある。たとえば、戸籍に「長男」と記載されている場合に、「長女」などに訂正し、社会制度上でも、自分の心の性別で暮らしたいと望むのである。
 このような性別の訂正は、欧米諸国の多くでは、出生登録書における性別記載の訂正という形で、立法的に、あるいは行政手続き的にすでに認められている5)6)。また、日本と同様の戸籍制度のある台湾、韓国でも認められている。
 日本では性別の訂正は、家庭裁判所に申し立てられ審判される。過去数例が認められているが、最近の多くの例では認められていず、また高等裁判所での判決でも認められていなく、性別の訂正は困難であった。
 このように、司法での解決が困難であったため、立法での解決が望まれることとなった。そのような中、2000年9月に南野知惠子参議院議員が自民党内に「性同一性障害勉強会」を発足させた。これは、2000年8月に神戸で開催されたアジア性科学会におけるシンポジウム「性転換の法と医学」に、助産師でもある南野議員も出席し、シンポジストの医師、法律学者等に呼びかける形で発足した勉強会であった。
 その後、性同一性障害の人権問題に対する世論の盛り上がりを受け、同様の勉強会が、公明党、民主党でも行われるようになった。2003年春には、性同一性障害の戸籍訂正に関する立法を目的とした与党プロジェクトチームが発足した。そのチームによって、出された法案に、野党もおおむね賛同する形で、2003年7月10日に、「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」が成立したのである。
 
(2)「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」への考察
 法律の全文は、表2に示した。このうちのいくつかの文言に関して、筆者の考察を述べる。
 まず、性同一性障害者の定義に、「自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を有する者」との文言がある。ここで、「意思」という言葉を用いているので、法的な判断力があるものに限定していることを示していると思われる。すなわち、統合失調症や痴呆の疾患等で、判断能力に問題があるものは、対象からはずされている。
また、「診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき行う診断が一致している者をいう」は、日本精神神経学会の「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(第2版)」で示される治療指針に対応したものと思われる。ただし、過去海外等で精神科医の関与なく性別適合手術を行ったものでも、その後2名の精神科医により、診断が合致すれば法適用の対象となるであろう。なお、「必要な知識及び経験を有する」がどの程度のものであるかは、現時点では明確ではないが、おそらく「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(第2版)」に従って診断と治療を行っている精神科医程度の知識と経験が必要とされることになるであろう。
 第三条では、審判請求に該当するための要件が示されている。「一 二十歳以上であること」というのは、成人であることに加えて、「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(第2版)」では、二十歳以上のものが性別適合手術の対象になっていることに対応していると思われる。「二 現に婚姻をしていないこと」というのは、もし婚姻したまま、一方の性別が変更された場合には同性同士の婚姻になるため、設けられた要件と思われる。「三 現に子がいないこと」は、たとえば、父が女性になる、母が男性になる、ということがおきないように設けられていると思われる。しかし、この要件は諸外国の法律では例を見ないものであり、性同一性障害の当事者の間には反対が強い。国会議員の間でも賛否それぞれ意見が分かれたと聞いている。「四 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること」は、特に女性から男性に性別を移行するものにおいて、性別適合手術で卵巣を摘出した場合だけなく、他の疾患等で機能を欠いている場合は、摘出していなくても要件を満たすものと考えられる。
 第三条2では「前項の請求をするには、同項の性同一性障害者に係る前条の診断の結果並びに治療の経過及び結果その他の厚生労働省令で定める事項が記載された医師の診断書を提出しなければならない」とある。このことより、法律上は提出すべき診断書は一通でよいと考えられる。しかしながら、診断書の信頼性を担保するものとして、「2人の医師に性同一性障害と診断されたことを示すもの」「生殖腺、および性器の状態に関する診断書」「性別適合手術を行った医療機関による診断書」などの各種資料も添付されることが望まれるのではないか。この各種資料の中で、「性別適合手術を行った医療機関による診断書」は、海外で手術を行った場合や、術後長期間が経過してすでに該当医療機関がない場合などは、入手が困難なことも予想される。そのような場合にどう判断すべきかは今後議論になる可能性もある。
 附則の検討2は、「 性別の取扱いの変更の審判の請求をすることができる性同一性障害者の範囲その他性別の取扱いの変更の審判の制度については、この法律の施行後三年を目途として、この法律の施行の状況、性同一性障害者等を取り巻く社会環境の変化等を勘案して検討が加えられ、必要があると認めるときは、その結果に基づいて所要の措置が講ぜられるものとする」とある。これは特に、「現に子がいないこと」という要件には、当事者の間に反対の意見があり、また国会議員の間でも議論となった部分なので、今後の検討課題とされるという含みを持ち、記されていると思われる。
 
 おわりに
本稿で記したように、性同一性障害をめぐる医学的、社会的状況はここ数年で大きく変化した。しかし、性同一性障害へのホルモン療法や性別適合手術への保険適用が困難なこと、治療を行う医療機関が限定されていること、子どもを有するものなどは「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」によっては戸籍の変更の対象から外れていることなど今後残された問題は山積している。これらの問題の解決のためにも、医療関係者および社会全体が性同一性障害へのより一層の理解を持つことを望みたい。
 
文献
1) American Psychiatric Association: Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, Forth Edition, Text Revision. American Psychiatric Association, Washington DC, 2000
2) 針間克己:一人ひとりの性を大切にして生きる.少年写真新聞社,東京,2003
3) 日本精神神経学会 性同一性障害に関する特別委員会:性同一性障害に関する答申と提言.精神神経学雑誌 1997;99:533-540
4) 日本精神神経学会「性同一性障害に関する第二次特別委員会」:性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(第2版).精神神経学雑誌 2002;104:618-632
5) 針間克己:性同一性障害者の抱える法的問題.性同一性障害の基礎と臨床,新興医学出版社,東京,2001;123-137
6) 大島俊之:性同一性障害と法.日本評論社,東京,2002