心と社会」第114号

「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」をめぐって

               針間克己


はじめに 2003年7月10日、衆議院で「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」(以下、特例法と略す)が満場一致で可決され、7月16日に公布された。この特例法によって、性同一性障害を抱える者の中で、一定の要件を満たすものは、たとえば「長男」から「長女」のように、戸籍上の性別表記が変更可能となる。本稿では、特例法が制定されるまでの経過と、特例法の全文、及び議論を記す。

特例法が制定されるまで
 戦後しばらくは、わが国でも性同一性障害への治療は行われていた。しかし、1969年、いわゆる「ブルーボーイ事件」が起こり状況は変わる。このブルーボーイ事件とは、ある産婦人科医が3名の男性に対し、睾丸摘出、陰茎切除、造膣手術などを行ったことに対し、優生保護法(現在の母体保護法)違反の判決が下ったものである。この判決は、性別適合手術が正当な医療行為と評価されるには一定の条件を満たさないといけないが、この産婦人科医は満たしていなかった、という趣旨のものであった。しかし、「優生保護法違反」という結論だけが一人歩きし、その後は長らく、わが国では性同一性障害への治療がタブー視されることとなった。
 その後、30年近くの時を経て、1997年、日本精神神経学会・性同一性障害に関する特別委員会が「性同一性障害に関する答申と提言」を発表した。これは性同一性障害を治療するにあたっての医師の守るべき治療指針を示したものである。これを遵守すれば、ブルーボーイ事件で示された、正当な医療行為としての条件もクリアするものである。この治療指針に則り、1998年埼玉医科大学で性別適合手術が公に知られる中、実施された。その後、岡山大学医学部でも性別適合手術を含む性同一性障害への治療が行われるようになった。
 このように性同一性障害への医学的状況はここ数年大幅な変化があった。これに伴い、従来はあまり問題化されていなかった、性同一性障害を抱える者の戸籍上の扱いがクローズアップされてきた。すなわち、性同一性障害を抱える者は医学的な身体の性別変更だけでなく、戸籍上の性別の訂正も望むことがある。たとえば、戸籍に「長男」と記載されている場合に、「長女」などに訂正し、社会制度上でも、自分の心の性別で暮らしたいと望むのである。
 このような性別の訂正は、欧米諸国の多くでは、出生登録書における性別記載の訂正という形で、立法的に、あるいは行政手続き的にすでに認められている。日本では性別の訂正は、家庭裁判所に申し立てられ審判される。過去数例が認められているが、最近の多くの例では認められていず、また高等裁判所での判決でも認められていなく、性別の訂正は困難であった。
 このように、司法での解決が困難であったため、立法での解決が望まれることとなった。そのような中、2000年9月に南野知惠子参議院議員が自民党内に「性同一性障害勉強会」を発足させた。これは、2000年8月に神戸で開催されたアジア性科学会におけるシンポジウム「性転換の法と医学」に、助産師でもある南野議員も出席し、シンポジストの医師、法律学者等に呼びかける形で発足した勉強会であった。
 その後、性同一性障害の人権問題に対する世論の盛り上がりを受け、同様の勉強会が他の党でも行われるようになった。2003年春には、性同一性障害の戸籍訂正に関する立法を目的とした与党プロジェクトチームが発足した。そのチームによって、出された法案に、野党もおおむね賛同する形で、2003年7月10日に特例法が成立したのである。

特例法全文
 特例法の全文は表に示す。

 性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律
(平成十五年七月十六日法律第百十一号)

(趣旨)
第一条  この法律は、性同一性障害者に関する法令上の性別の取扱いの特例について定めるものとする。
(定義)
第二条  この法律において「性同一性障害者」とは、生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれとは別の性別(以下「他の性別」という。)であるとの持続的な確信を持ち、かつ、自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を有する者であって、そのことについてその診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき行う診断が一致しているものをいう。
(性別の取扱いの変更の審判)
第三条  家庭裁判所は、性同一性障害者であって次の各号のいずれにも該当するものについて、その者の請求により、性別の取扱いの変更の審判をすることができる。
一  二十歳以上であること。
二  現に婚姻をしていないこと。
三  現に子がいないこと。
四  生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。
五  その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。
2  前項の請求をするには、同項の性同一性障害者に係る前条の診断の結果並びに治療の経過及び結果その他の厚生労働省令で定める事項が記載された医師の診断書を提出しなければならない。
(性別の取扱いの変更の審判を受けた者に関する法令上の取扱い)
第四条  性別の取扱いの変更の審判を受けた者は、民法(明治二十九年法律第八十九号)その他の法令の規定の適用については、法律に別段の定めがある場合を除き、その性別につき他の性別に変わったものとみなす。
2  前項の規定は、法律に別段の定めがある場合を除き、性別の取扱いの変更の審判前に生じた身分関係及び権利義務に影響を及ぼすものではない。
(家事審判法の適用)
第五条  性別の取扱いの変更の審判は、家事審判法(昭和二十二年法律第百五十二号)の適用については、同法第九条第一項甲類に掲げる事項とみなす。

   附 則 抄
(施行期日)
1  この法律は、公布の日から起算して一年を経過した日から施行する。
(検討)
2  性別の取扱いの変更の審判の請求をすることができる性同一性障害者の範囲その他性別の取扱いの変更の審判の制度については、この法律の施行後三年を目途として、この法律の施行の状況、性同一性障害者等を取り巻く社会的環境の変化等を勘案して検討が加えられ、必要があると認めるときは、その結果に基づいて所要の措置が講ぜられるものとする。
3  国民年金法等の一部を改正する法律(昭和六十年法律第三十四号)附則第十二条第一項第四号及び他の法令の規定で同号を引用するものに規定する女子には、性別の取扱いの変更の審判を受けた者で当該性別の取扱いの変更の審判前において女子であったものを含むものとし、性別の取扱いの変更の審判を受けた者で第四条第一項の規定により女子に変わったものとみなされるものを含まないものとする。

特例法をめぐる議論
 特例法は国会で迅速に、かつ、満場一致で可決された法律である。しかしながら、この法律制定にあたっては、反対論が皆無だったわけではない。性別に違和感を抱える当事者の間では、この法律に関するさまざまな異論、反対論が起きたのである。
 反対論の第一は、戸籍変更可能となるものの要件をめぐってである。「二十歳以上であること」という要件に対しては「二十歳未満でもいいのでは」、「現に婚姻していないこと」という要件に対しては「婚姻していてもいいのでは」、「現に子がいないこと」という要件に対しては「子がいてもいいのでは」、「生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること」「その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること」という要件に対しては「性別適合手術(性転換手術)してなくてもいいのでは」という反対論がそれぞれ起きた。とりわけ、「現に子がいないこと」という要件は、すでに子どもがいる場合には、子どもが死亡しない限りクリアできない要件であったため子どもがいる当事者の反対は強かった。これら反対論も考慮して、特例法には、附則2として、「性別の取扱いの変更の審判の請求をすることができる性同一性障害者の範囲その他性別の取扱いの変更の審判の制度については、この法律の施行後三年を目途として、この法律の施行の状況、性同一性障害者等を取り巻く社会的環境の変化等を勘案して検討が加えられ、必要があると認めるときは、その結果に基づいて所要の措置が講ぜられるものとする。」つまり、三年以内に要件などを見直すという一文が設けられている。
 この反対論の第一は、特例法全体は賛成するものの、個別の要件をめぐる条件緩和を求めるという趣旨であるが、反対論の第二は、別の視点からの特例法そのものへの問いかけである。この反対論の第二は主としてトランスジェンダー(transgender)の立場から主張された。性別違和感を持つもののなかで、「性同一性障害」が医学的疾患概念とすれば、トランスジェンダーとは、従来の性別概念を超える生き方やありようをするものの呼称である。ちょうど「同性愛」に対する「ゲイ、レズビアン」という呼び名に相当するといえばわかるだろうか。このトランスジェンダーの立場からすれば、特例法は必ずしも福音とはならない。ひとつには性の自己認識が身体と一致しない場合に、それが「性同一性障害者」という法律的に規定される医学的疾患という枠にのみ閉じ込められると考えるからである。いいかえるならば、精神疾患ではない個々のセクシュアリティのありようという視点が特例法には欠けているというのである。また、特例法が男女への二分性別を再強化するのではとも、トランスジェンダーは危惧する。トランスジェンダーは必ずしも典型的な男性、女性のありようにはとらわれない。しかし、特例法によって、「性同一性障害者」達は、心理的、身体的、社会的にも、典型的な男性ないしは、女性という枠に、制度上再び取り入れられることになる。そこでは、非典型的な性別のありようの生き方をするものは阻害されると、トランスジェンダーは考える。

おわりに
 特例法に関する経過、内容、議論を紹介した。性別に違和感を抱えるものを「性同一性障害」として医学的に治療し、「特例法」で法律的に救済することは、彼らの苦悩の軽減に一定の役割を果たすであろう。しかしながら、自己のセクシュアリティのありようを大切にしようとするトランスジェンダーの主張にも耳を傾けるべきであろう。さまざまなセクシュアリティのあり方が尊重されることを前提にして、その上で、必要であれば、性別に違和感を持つものに医療や法律が関与する社会が望ましいのではないだろうか。