夫の言い分


2003.4.18 聞かなきゃよかった

 EDという疾患がある。ペニスがセックスのときに勃起(ぼっき)しない障害である。男性全般にとって、EDになるというのは、正直なところ、あまりかっこいいものではない。
 しかし、夫がEDになった時、夫をさげすんだりする妻は、意外と少ないものである。
 たいていの場合は、「いったい、どうしたんだろう」といっしょになって心配したり、「マンネリに陥らず、私も魅力を保たなければ」と考えたりする。
 それに対して夫は夫で「本当はセックスしたいんだけれど、勃起しなくて」などと言い訳したりして、それなりに夫婦関係はうまくいっていたりする。
 ところが最近、薬物治療の進歩で、EDの多くは改善するようになった。薬さえ飲めば、きちんと勃起するのである。これで万事解決かと思えば、そうはいかないから世の中、不思議である。
 薬のおかげで勃起はするようになったけれど、実は妻とは性交をやりたくない、という夫が結構いるのである。「勃起できない」夫は許せても、「性交をしたくない」夫を、妻はそう簡単には許してはくれない。
 夫婦そろってカウンセリングをしていても、こうなると始末が悪い。性交をしたくない夫の言い分を聞けば聞くほど、これまで覆い隠されていた、夫婦関係のドロドロが出てくる可能性が大きいからだ。表面的には仲良かった夫婦関係が根底から変わっていくかもしれないのだ。
 聞かなきゃよかった、夫の言い分。言いさえしなければ、とりあえずは仲良く過ごせたかもしれないのに。でもやっぱり本音をぶちまけるべきなのかなあ。

2003.5.16 「結婚」という契約

 日本人はよく契約書をきちんと読まないといわれる。
 まあ、それでも家を買ったり借りたりするときはよく検討するだろうし、保険に入る時だって、いろいろ研究はすると思う。
 しかし、実は人生最大の契約については、ほとんどの人がまったくその内容を知らないで契約してしまう。人生最大の契約、それは結婚である。
 たいていの場合、ただ「愛がある」ので結婚してしまう。婚姻届と、結婚式での誓いはあっても、契約書なんかは普通、取り交わさない。だが、契約書がなくても結婚は実に厳しい契約なのだ。
 当たり前と思うかもしれないが、夫婦は性交をする義務がある。逆に言えば、性交できない夫や妻は離婚されても慰謝料を請求されても文句は言えない。
 奇妙なことに、生殖能力はなくても、離婚の理由にはならないのだが、性交できないと法律的には離婚の理由になる。
 このような法律の考えは、どうやら、中世のキリスト教における結婚観から始まっているらしい。結婚というキリスト教における秘蹟(ひせき)は、肉体の結合により完成するのに、性交できないと秘蹟にはならないというわけだ。また、結婚は子孫を残すためというより、肉欲を抑えるものだという考えから、生殖能力はなくても離婚にはならなかったようだ。
 そんな考え方が支配的だった中世のヨーロッパでは、離婚の裁判で、性交ができるかどうかを公衆の面前で証明しなければならなかったとか。
 今の日本では、そういうわけにもいかないので、性交できるかどうかの判断は医者の出番となる。ところが、明らかな身体的な疾患で性交できない場合の判断は簡単だが、心因性のED(勃起(ぼっき)障害)などの場合だと、そう簡単にはいかない。
 妻は、夫がEDだから離婚するというし、夫は、夫婦仲が悪いので勃起しないだけで本当は大丈夫だと主張する。こうなると、間に立つ医者はただおろおろするばかりだ。真相はよくは分からないし、どっちについても恨まれてしまう。
 「身体的には特に異常はない」みたいなどっちつかずの診断書を書いて争いから逃げるのが精いっぱいである。(精神科医)

2003.6.13 どんな「性」の選択であれ

夫が「女性になりたい」と言い出したら、妻はどう思うのだろうか。突飛な話ではなく、夫が性同一性障害を抱えている場合には、実際に起こりうる事だ。
 性同一性障害とは「心の性と体の性が一致しない状態」で、例えば、男性の体で生まれてきても、心は女性で、女性になりたいと思い、ホルモン療法や手術によって、体も女性になろうとしたりする。
 統一地方選挙で、性同一性障害を抱える上川あやさんが世田谷区議に当選したり、つい先ごろは性同一性障害を抱える人の戸籍の訂正に関する法案が提出されるというニュースが流れたりで、性同一性障害に対する社会の理解も随分広がっている。
 しかし、そういった社会での理解は、ある意味で比較的わかりやすい、典型的な方々に対してだ。
 例えば、誰がどう見ても美しい女性である上川あやさんが「実は私は戸籍上では男性なのです。このままでは愛する男性とも結婚できません」といえば、世間の人びとは、驚くだろうけれども、「大変なんだろうな」という気持ちを持つと思う。
 だが、実際には性同一性障害を抱える人は、そんなシンプルな状況でない方も多い。例えば、すでに男性として女性と結婚したり、子供ができたりした後に、女性になりたい気持ちが強まる人もいる。
 すでに夫として、あるいは父として、夫婦生活や家庭生活を送っていたのに、女性になろうとするのだから大変である。妻や子供の理解が得られず、離婚したり子供と会えなくなる人もいる。妻からすれば、女性と結婚したわけではないのだから、それはそれでもっともな事である。
 一方で、結婚生活、家族生活を続ける人もいる。そうなると、夫が女性になったり、父親が女性になったりするわけで、はた目には大変そうだ。でも、その生活は、家族中でみんなで悩んだ末の結論なんだろう。そういう状態であっても、家族の絆(きずな)は保たれたりもするのだろう。

 まあ、いずれにせよ結婚している性同一性障害の人や、その家族はそれぞれに置かれた立場の中から、最善と思う選択をするのだろう。どんな選択であれ、性同一性障害を抱える人や、その家族が幸せに暮らしていける社会であったら素敵(すてき)だなと思う。

2003.7.11. 突然張り切っても

だいたいの場合は、夫の妻に対する性欲というものは、結婚後は時間とともにだんだんと減っていくようである。
しかし、なにかのきっかけで、ぱっとやる気が戻ることもある。定年退職もそのきっかけの一つかもしれない。
それまでの忙しい会社生活が終わり、「これまでは、家庭をかえりみず働いてきた。これからの第二の人生は、妻と二人きり、昔のように仲良く過ごそう」と思い、ついでにそれまでおざなりであった、性生活も復活させようと思ったりするわけだ。
ところが皮肉なもので、夫のほうがそんなふうに望んでも、妻が喜ぶとは限らない。
60歳で定年になるとすれば、平均的にいって、その妻の年齢は、50歳半ばである。
 この年齢では、女性ホルモンの分泌も減ってきて、性交も痛くなるころである。そんな時に「性交しよう」と夫が突然張り切っても、迷惑なだけの妻も多いだろう。
 「カラダと気持ち」という中高年の性生活を調査した本がある。この本によれば、50歳から54歳の女性の43%が夫の性交を望んでいるが、55歳から59歳の女性だと夫の性交を望む人は26%と急激に減少している。
 50歳台半ばというのは、ちょうど性交がいやになってくる年齢のようなのだ。
 さらにいえば、55歳から59歳の女性で、自分の性的気持ちを伝える人は34%。残りの66%の女性は、自分の気持ちを伝えない。
 妻の本当の気持ちを知らないまま、一人張り切る夫が滑稽ですらある。
 医学的には、50歳台女性の性交痛もゼリーを使ったりすることで改善することは可能だ。しかし、いまさら夫とは性交したくないという思いを持っているのであれば、医者のほうはいかんともしがたい。
 結局のところは、この年齢の夫婦の性生活は、それまで数十年の夫婦生活、性生活の中身が問われてくるのであろう。
 夫からの性交を拒むある女性のせりふが忘れられない。
 「これまで、何十年と夫からの一方的な性生活に耐えてきました。でも夫が勤めを終えた今、私もお勤めはおしまいにすると決めたのです。」

2003.8.15 夫の言い分 「義務と権利」ではなく

 最近、若者の性犯罪事件がマスコミで騒がれている。この手の事件では、必ずといっていいほど、被害者の女性の落ち度を責め、加害者の男性を擁護する発言をする人が出てくる。
 こんな発言をする人は、力づくでも性交できて男性は一人前みたいな考えが心のどこかにあるのだろうか。
 全く腹が立つ、と思っていたところ、アメリカから興味深いニュースを聞いた。
 イリノイ州で最近できた法律によれば、たとえ性交をしている最中でも、相手が「やめて」といったらやめないと、強姦になるのだという。
 性交における互いの意志が最大限尊重されるべきだという考えに基づく、画期的な法律ではあるまいか。
 ところで、夫婦の間では強姦罪はほとんど成立しないそうだ。
 夫が嫌がる妻と無理やり性交をしても、強姦にはならないということだ。
 何年か前のベストセラーに「義務と演技」というタイトルの本があった。現実には、夫婦間の性交は「義務と権利」なのである。
 つまり、「夫婦間においては性交を求める権利があるし、求められれば応じる義務がある」ということらしい。
 義務と権利なのだから、強姦罪にはなるはずがない、という理屈である。
 結婚式の時に、終生の愛は誓うかもしれないけれど、「必ず性交に応じます」とは誰も誓わないと思うのだが、法的には結婚とはそういうものらしい。
 実際、「妻なんだから性交に応じるのがあたりまえだろう」と主張する夫は時々見かける。それに対して、仕方なく疲れている時や、病気の時にでも応じる妻もいる。
 夫のほうは、妻のことなどお構いなく、したいときにするのが夫としてあたりまえぐらいに思っているのだろうか。
 そういう二人を見てても、愛情は全然伝わってこなくて、離婚するのもの大変なので、夫婦を続けているという感じだ。
 せっかくの性交なのだから、義務とか権利とかではなく、お互いの愛情と同意の上で、やるのがいいと思うのだけれども。
 そういうことを言う僕は、男としては一人前ではない、なんていわれるのかもしれないのかな。

2003.9.12 「病気と性生活」

 病気になったあとの性生活をどうするかは難しい問題だ。
しかしながら、難しい問題にもかかわらず、正直なところ、日本の医学界はこの問題にはあまり関心を持ってこなかったように思われる。
 私にしたところで、以前は身体的な疾患を抱えた人が性生活の不調を訴えたとしても、「まずは体の病気をしっかり治して」などいって、性的問題を深くは取り扱おうとはしなかった。
 しかし、そんな私の考え方も、すっかり変わってしまった。
 きっかけは東京大学で、がんとセクシュアリティについて研究している高橋都先生に、「sexuality and  cancer(セクシュアリティとがん)」という英文の冊子を教えてもらってからだ。
 この冊子には、がん治療後の性生活をどうすればよいかが、男性用、女性用にこと細かく書いてあった。
 その情報量の多さと、いつまでも性生活を続けようという強い意志に感銘を受け、いつまでも性生活が大切であることを再認識させられたのである。
 結局この冊子は、高橋先生と共訳で「がん患者の<幸せな性>」というタイトルで、出版させていただいた。
 確かにこの本が述べているように、がんの治療を受けたからといって、性生活をやめなければいけない理由などない。
 しかし、「性交をすると、手術したところが痛むのでは」、「無理な性交をすれば体に悪影響では」などと思い、性生活を躊躇するのも当然であろう。
 それに、無理に性交をすれば、痛みが生じたり、体に悪影響を与えることも実際にありうるであろう。
 いっぽうで、性生活がなくなると「夫はもう私を自分を女性としては見てくれてない」などと思い、つらい気持ちになるということもありうることだ。
 このようなことを考えると、医療側がきちんと治療後の性生活に関する情報を与え、その上で夫婦二人でどうするのがよいのかよく話し合うのがよいのだと思う。
 病気になったあとこそ、夫婦がよくコミュニケーションをとって、幸せな生活、幸せな性生活を再び築いていくよい機会なのではなかろうか。

2003.10.10 ゆったりとした時間

先日、学会でベルギーのゲントという街に1週間ほど滞在した。
 大きな声ではいえないが、学会、特に国際学会というのは、医者のひそかな楽しみである。
 「学会」という大義名分があれば、職場にも、患者さんにも、家族にも、誰にも気兼ねすることなく、海外で日ごろの雑務から離れた時間を過ごすことができるからだ。
 とはいえ、物見遊山に来たわけでもないし、専門とする学問の話は面白いので、私自身は、観光もせず、朝から晩まで学会場にいたのだが。
 それでも、鐘楼や聖堂を見ながら学会場へと通う日々はゆったり流れていき、日頃、東京でばたばたと過ごしている私には、すばらしきゲントの休日であった。
 そんな中、ふと思い出したのは、勃起障害を訴えるある男性のことであった。
 この男性が通院していたのは、10年程前で、当時は良い薬もなく、勃起障害を治すのはカウンセリングが一番頼りになるという時代であった。
 話を聞くと、彼が勃起障害になったのは、新婚旅行がきっかけのようだった。
 新婚旅行の前はとかく忙しいものだ。ご多分に漏れず、彼の場合も、結婚の準備やら、新居への引越しの準備やら、新婚旅行中分の仕事の穴埋めやらで、相当過労気味だったらしい。
 それで、旅行先がヨーロッパ。1週間に数カ国も回るハードスケジュール。当然のことながら、体調はぼろぼろになった。  それでも、けなげというか真面目というか、彼は「新婚初夜だから」ということで、性交を試みたわけだが、そんな状況ではうまくいくはずもないだろう。
 その後もその失敗が尾を引いて、すっかり自信喪失となったようだ。
 彼には、「そんな無理にばたばたすれば勃起しないのはあたりまえ。気を取り直して最初からゆっくりやりましょう」と説明し、その後、数ヵ月してなんとか性交できるようになった。
 最近は、ファーストフードならぬスローフードが流行ってきているそうだ。食事に限らずスローな夫婦の時間、スローな旅行、さらにはスローに人生過ごしていくのも、こんな時代にはいいのかもしれない。

2003.11.7 投票はおしゃれに
 
 今度の選挙は、各党がマニフェストという詳しい政策を発表していておもしろかった。
 たとえ、印刷物は手に入らなくても、インターネットで、いくらでも読むことができる。
 とはいえ、わたしが読むのは、もっぱら専門であるセクシュアリティ関連の政策ばかりではあるのだが。
 たとえば、いくつかの党が性同一性障害者の人権推進を政策として掲げている。先の国会で、性同一性障害者の性別変更が可能となる法律もでき、性同一性障害への議員さんたちの関心は高そうだ。
 同性愛者の人権擁護を掲げている党もある。
 同性愛についてはインターネット上で候補者に対して、同性愛の当事者たちから、アンケートが行われていた。
 同性愛への熱き想いを語る候補者もいれば、「同姓愛」と表記している党もあり、その反応はいろいろである。
 ドメスティックバイオレンスへの取り組みもいくつかの党が掲げており、これにも注目。
 性犯罪防止の取り組みを掲げている党もある。
 これは、最近マスコミを騒がす性犯罪が多発していることや、それに対する政治家の失言や問題発言への対応といった面もあるのだろう。
 しかし、性犯罪の被害者や加害者を出さないために、どのような性教育をすべきかという観点からはどの党も論じていないのは少し残念。
 といった具合に、各党のセクシュアリティ関連の政策を読み込んでいく。
 そしてまあ、そんなこんなで、どの候補者に入れるかを決めるわけだが、これが妻の投票しようとする候補者とは違ったりする。
 そうすると、たとえ夫婦で投票にいったところで、小選挙区で一人しか当選しないのだから、それぞれ対立候補が一票づつ増えるだけで、あまり意味がないという気もする。
 だからといって妻に、自分がいいと思っている候補者への投票を強要するようなことは、はしたないこと著しい。
 夫婦二人で投票にいって、意見が違ったら違ったで、それぞれ別の候補者に、にっこりと投票するというのが、おしゃれな夫婦のあり方ではあるまいか。


2003.12.5.毎日新聞 夫の言い分 針間克己
 
ふた問題を巡って

 アメリカの本で、「夫婦生活をうまくする100のアドバイス」のような本を読んだことがある。
 この本の内容は、いかにもアメリカ的な、こまごまとした具体的マニュアルを列挙したものである。
 そのマニュアルはどれも涙ぐましいものだったので、半分笑いながら読んでいたのだが、ひとつ大きくうなったものがあった。
 それは「小便をし終わったら、ふたをしてもとに戻しましょう」というアドバイスであった。
 何を隠そう、このトイレ問題は、我が家でも大きな争点になっているのだ。
 洋式トイレには、ふたをした状態、便座を下ろした状態、便座を上げた状態、の3つがある。
 女性は通常、便座を下ろした状態で使用する。ところが、男性は通常は、小便を便座を上げた状態で使用する。
 ここで争いが起きる。女性はどうせ座るのだから、ふたを開けたり閉めたりするのは、特に面倒ではない。
 ところが男性は、立ったまま小便をするので、ふたを開けるのは面倒なことこの上ない。
 そこから、ふたを開けるか閉めるかで論争が起きるわけだ。
 しかも、問題はふたの開け閉めにとどまらない。立って小便している時に、飛び散ったりすると、トイレの周りが汚れてしまう。
 私がきちんとふくことを忘れてトイレから出ると、汚れたトイレを見た妻が激怒するというわけだ。
 妻が強い家庭だと、女性のように夫は便座に座って小便をさせられるという。
 でも、男女平等主義者の私も、立って小便することだけは譲れない。
 病気や事故などで、陰茎を失った人に、陰茎を再建する形成外科医から聞いた話だが、陰茎が再建されて一番うれしいことは、「立ちションができること」だそうだ。
 性交できることよりも、立ちションできることのほうが、男性にとっての陰茎の存在価値なのである。
 なんだか、情けない気もしないではないが、立って小便することは、私の男としてのプライドなのだ。
 夫婦仲が悪くなろうと、これからもトイレのふたはしないであろう。


2004.1.9.毎日新聞 夫の言い分 針間克己
 
「つま」と「おっと」

 あけましておめでとうございます。
 新年ということで、問題をひとつ。「夫」という漢字はなんと読むでしょう?
 おそらく、ほとんどの人は「おっと」と読むのではないだろうか。ちょっとひねった答えとしても、「それ」や「お」と読むぐらいか。

 もちろんこうした答えも間違ってはいないのだが、実は、ほかにも意外な読み方がある。

 それは「つま」という読み方だ。「つま」というと、「妻」という漢字ばかりを連想するかもしれないが、「夫」も「つま」と読めるのだ。

 「つま」とは、配偶者の一方を指す言葉なので、「妻」だけでなく「夫」も「つま」と読んで良いわけだ。

 ついでに、「つま」の意味を、もう少し深く考えると面白い。 「つま」はほかの漢字では「端」だったり、「褄」だったりする。 「端」とは、漢字を見たとおりに、「へり」や「はし」という意味だ。「褄」は服のすその、左右両端の部分のことだ。

 これらの言葉から連想される「妻(つま)」と「夫(つま)」は、カップル関係で、こっちの端っこと、あっちの端っこにそれぞれいる「妻(つま)」と「夫(つま)」の2人である。

 どちらかが威張るわけでもなく平等で、でも実は互いにとても重要な役割を果たしている、という感じで、素敵な「つま」と「つま」だ。

 しかしながら、「つま」に対して「夫」を「おっと」と読む場合にはなかなか大変なものがある。

 「おっと」とは、「一人前の男」という意味だ。 「一人前の男」とは何をさすのか、厳密にはよくわからない。 でも、多分、一人前の男であれば、妻に弱みは見せられないだろうし、家族の全責任を背負わなければいけない。

 休むことなく働きつづけ、力強いリーダーシップを発揮し、大声を出して、家族を正しい道へと導かなければいけない。

 こういう「一人前の男」が得意な男性も多いのだろう。 でも、正直言って、僕はそんなのは苦手である。「おっと」であるよりも「つま」でありたい。

 「つま」として今年もはしっこから、小声でぶつぶつ、言い分を唱えたい。

2004.2.6.毎日新聞 夫の言い分 針間克己
 
「医者の養生」

 「医者の不養生」という言葉がある。 健康の増進を図るべき立場の医者が、自分のことはお構いなしで不健康な生活をすることだ。しかし、私の場合は自慢するわけではないが「医者の養生」である。

 早寝早起きだし、食べ物には気を使っているし、適度な運動は欠かさないし、たばこは触ったこともない。

 だけど、酒だけは例外であった。
 毎日飲むわけではないが、飲み出すと止まらない。
 とことん飲んだあげくに最後はおきまりのパターンである。嘔吐(おうと)したり、路上で酔いつぶれたり、最終電車を逃して高い料金を払ってタクシーで帰宅したり、二日酔いに苦しんだりである。

 もちろんそんな状態で帰宅すると、妻は激怒する。
 しかし、「仕事のつきあいで仕方がない」「たまのストレス解消だ」と、ありがちな反論をしていた。
 健康に気を使う私がこれだけ大酒飲みなのは、我ながら不思議なことである。
 よくよく考えてみると、理由は分からないが、小さいときからなんとなく、「男はたくさん酒が飲めて一人前」という考えを刷り込まれていたような気がする。

 いくらでも飲めるのが、豪快で器が大きい男というイメージだ。
 しかし、昨年の年末に忘年会が続き、飲酒量が激増して体調を崩していく中で、生まれて初めて「なぜ私は酒を飲んでいるのだろう」と疑問を持った。

 よく考えれば、酒を飲まなくても、飲み会に参加すれば、つきあい上の問題はない。酒を飲んで酔っぱらわないと、ろくに会話も出来ないというのも情けない。

 それに、酔っぱらって、くだを巻いている姿は、全然立派な男にも見えないし。
 そんなわけで、昨年末に、酒をやめることにした。
 今年に入って新年会や飲み会も結構あったが、ウーロン茶ですませている。
 別に無理に酒を強要する人もいないし、「いやあ、断酒したんですよ」と話すと、笑いもとれる。

 頭がさえてる方が、いろいろと会話も弾むし、くたびれない。妻の機嫌も良い。
 要するに酒を飲まないといいことずくめなのである。
 かくして最近では、酒を飲まない男こそ一人前だと思っている。