「ガイドラインにおける基本的用語の捉え方」 針間克己 7.ガイドラインにおける基本的用語の捉え方 はじめに ガイドライン第二版においては、初版と比較し、いくつかの基本的用語が変更ないし、新たに使用されている。また、基本的用語の概念、捉え方にもいくつかの点で変更がある。ガイドライン本文中に、必ずしも、その変更点が明記されているわけではないので、どこが変更され、その変更の背景にはどのような議論があったのか述べていく。 (1)性同一性障害 ガイドライン第二版においては、初版に記されていた性同一性障害とは何かについての概念定義はない。理由は、初版の説明が不正確で、誤解を招きやすいものであったためである。 初版においては、性同一性障害を「生物学的には完全に正常であり、しかも自分の肉体がどちらの性に所属しているかをはっきり認知していながら、その反面で、人格的には自分が別の性に属していると確信している状態」と定義している。この定義で主に問題となるのは、「生物学的には完全に正常であり」の部分である。DSM-IV(精神疾患の診断・統計マニュアル)1)で述べられているように、性同一性障害の診断においては、確かに半陰陽、すなわち、身体的な性別が典型的でないものは除外される。しかし、このことは性同一性障害が「生物学的には完全に正常であ」ることを意味するわけではない。 1950年代、性同一性障害(当時は性転換症transsexualismと呼ばれた)が研究されはじめた当時、半陰陽とは違い、明確な身体上の特徴は見いだされなかった。そのため性同一性障害の原因は、もっぱら両親との関係、育てられ方、社会的要因などの後天的なものが考えられた。このことより、当時は性同一性障害の概念定義として、「性同一性障害は生物学的には完全に正常である」といった条件があったという歴史的経緯がある。しかしながら、その後の研究では性同一性障害の原因の一つとして、脳の性分化異常が基盤にあるという考えが研究者の間では主流となっている2、3、4)。 ガイドライン初版の作成者たちが、1950年代の「性同一性障害の原因としては、生物学的要因はなく、もっぱら心理社会的なものである」という考えを固持しているのであれば、第二版の筆者たちとは、学問的立場が異なることになり、一方的に初版の概念定義が不正確だと主張するのは公平ではないであろう。初版においては、性同一性障害の原因論については明記されておらず、その考えは不明である。しかし、初版作成にあたった委員会の山内委員長が同じく委員長をつとめた埼玉医科大学倫理委員会による「『性転換治療の臨床的研究』に関する審議経過と答申」5)には、以下のような記述がある。「その障害の原因、発現幾序については必ずしも明確ではなく、生物学的要因、心理的・社会的要因などの関与が想定されているが」「その原因として、単に心理・社会的要因のみならず、胎生期、幼少期の性物学的要因の関与する可能性が指摘されている状況において」。また、初版作成者たちが主として執筆した文献6)においても、性同一性障害の原因として生物学的要因が論じられている。これらのことより初版作成者たちも、性同一性障害の原因論としては、生物学的要因が関与しているという立場であると推測され、第二版作成者との間に、対立はないということになる。 ではなぜ、初版において概念定義の中で、「生物学的には完全に正常」という文言があるのか。一つには、1950年代の概念定義の文言の名残であろう。初版の定義と類似の文節が、新版精神医学事典7)の「性別同一性障害」に「性別同一性とは、生物学的・解剖学的には完全に男性(あるいは女性)でありながら」として、見いだされる。このことから、性同一性障害への医学的関心の乏しかった我が国において、1950年代の性同一性障害概念定義がそのままの形で残存し、新版精神医学事典を経て、初版の概念定義へと引き継がれたのではないかと推測する。 さらにもう一つの理由として、脳を除外した、染色体、ホルモン、内外性器のみに限定した意味で「生物学的」の用語を用いているためだと推測される。だが、この用法は不正確であり、誤解を招く。医学の知識の乏しい非専門家がこの文言を読んだ場合には、「性同一性障害を有する者は脳を含めて、生物学的にすべての要素が完全に女性ないしは男性。であるから、性別に関する問題はもっぱら心理的ないしは社会的な問題に過ぎない」と考えるであろう。実際に、日本の性同一性障害の戸籍訂正に関する法的判断8)はこの理解に基づいている。しかしながら、正確には、脳も当然ながら人間の生物学的構成要素の一つである。それゆえ、脳の性分化異常が原因として示唆される以上、性同一性障害は「生物学的には完全に正常」とはいえないのである。 以上のことを鑑み、第二版では、初版の性同一性障害の定義は採用しないことにした。第二版において、新たな定義を掲げることも検討された。が、性同一性障害の疾患概念を簡潔に定義することは、容易なことではなく、無理に簡潔なものにすると、再び誤解を招きかねない。そこで、第二版では、性同一性障害についての簡潔な定義は示されていない。しかしながら、性同一性障害の概念定義は、診断のガイドラインを示すことで実際にはなされている。すなわち、第二版の「3.診断のガイドライン」の手続きに従い、「性同一性障害」と診断される状態が、性同一性障害という疾患なのである。 (2)身体的性別 初版においては、「生物学的性(SEX)」という用語が用いられているが、第二版においては、「生物学的性」という用語は用いずに、「身体的性別」という用語を用いている。 理由は「生物学的性」という用語の使用が不正確だからである。確かに、性同一性障害を有する者の外性器、内性器、ホルモン、性染色体等は、治療前であれば男女いずれかの典型的なものである。しかしながら、だからといって性同一性障害を有する者の生物学的性が明瞭に男女に分化していると言い切れるものではない。分界条床核の研究9)をはじめとして、性同一性障害の脳の研究は、その障害の原因として身体的性別に一致しない方向への脳の性分化という生物学的基盤を示しつつある。また、性同一性障害の遺伝子情報に関しては、アンドロゲン受容体等のいくつかの遺伝子において、長い塩基の繰り返し配列等の特徴が示唆されている10)。このような医学的知見に基けば、「性同一性障害を有する者の生物学的性はなにか」については明解には定義できない。 これらの議論をふまえ、混乱を防ぎ、明解にガイドラインを記述するために外性器、内性器、ホルモン、性染色体に関する性別を示す用語として、「身体的性別」を用いた。もちろん「脳も身体の一部ではないか」という疑問も起こりうるが、これ以上の厳密な定義は実際上困難であり、一般的な誤解を招きにくい「身体」という用語を用いた。 (3)ジェンダー・アイディンティティ 第二版ではジェンダー・アイディンティティという用語が新たに用いられている。この用語は、初版で「gender」「ジェンダー」「性の自己意識」「自己の性意識」「性の自己認知」等と用いられた概念とほぼ同じ意味で用いているが、なぜ、あらたにジェンダー・アイディンティティを用いたかを説明する。 まず、初版においては、英語におけるgenderとgender identityの二概念が明確には区別されて用いられていなかった。gender identityの概念に近い意味で、genderを初版では用いていたが、これは混乱と誤解を生ずることになった。すなわち、日本においては、genderはカタカナのジェンダーとして、「社会・文化的性」の意味で、女性学や社会学等の医学以外の他の学問分野ですでに用いられている用語であった。そこに、gender identityの意味でgenderを用いることは、従来のジェンダー概念との混同を招いた11,12)。このことより、第二版では英語の概念としてはgender でなくgender identityを用いることにした。 次にgender identityをどのように日本語訳するかが議論された。日本ではこれまで主として「性同一性」と訳されていたが、初版においては、「性同一性」という言葉は「専門領域以外の人にはなじみくにいことを考え、あえて」「性の自己意識」「自己の性意識」「性の自己認知」(訳語不統一)と訳されていた。しかし、identityという概念を、意識や認知と訳するのはおかしいとの意見が出た。また、一方で、「同一性」という言葉も初版で指摘されたように一般にはなじみがないとも思われた。結局、アイデンティティという言葉はすでに日本語として定着しており、カタカナ表記が一番正確かつ理解もしやすいと考え、英語をそのままカタカナ表記し、ジェンダー・アイディンティティという用語を用いることにした。その後、この用語は、2002年3月岡山で開催された第4回GID研究会でも使用が承認された。 ジェンダー・アイディンティティとは何かについては第二版の中で明示されてはいない。ここでは、gender identityという言葉の生みの親である、ジョン・マネー13)の定義を紹介しておく。 「一人の人間が男性、女性、もしくは両性として持っている個性の、統一性、一貫性、持続性をいう」 なお、性同一性という用語について念のため付記しておく。ここまで述べてきたように、性同一性とは、gender identityの精神医学界における伝統的な訳語であり、その意味するところは、上記したジョン・マネーの定義の通りである。しかしながら、この用語の理解には一部に誤解がある。すなわち、初版ガイドラインが作成される契機となった、埼玉医科大学倫理委員会による「『性転換治療の臨床的研究』に関する審議経過と答申」の中に、以下のような記述が見られる。「『生物学的性』と『心理・社会的性』が一致するとき『性同一性(gender identity)』があるという」。そして、この記述をそのまま引用したと思われる、性同一性の用語理解が、非専門家によって書かれた最近の文献8,14)には散見する。しかし、この記述、理解は誤りである。たとえば男性から女性へ性別移行をしようとしている者の場合は、女性としてのgender identityすなわち性同一性が存在する。「生物学的性」と不一致だからといって、gender identityすなわち性同一性がないわけではない。一致不一致の意味で性同一性を用いるとしたら、性同一性障害を有する者の性同一性を否定することになり、治療的意味においても問題が起きるであろう。このように記述されているのは、おそらくは性同一性の「同一」を「生物学的性と心理・社会的性とが同一」との意味に誤解していることから生じていると思われる。 identityの同一性とはこのような意味ではなく、自己の単一性、不変性、連続性という意味において、同一なのである。今後、性同一性という用語を用いるときは、gender identityの訳語であることを十分に留意し、誤解ないように用いてほしい。 (4)性同一性障害を有する者 初版では「性同一性障害を有する者」と表記されているが、第二版でも、そのまま踏襲した。一般には「性同一性障害者」と表記されることが多いのだが、わざわざ「性同一性障害を有する者」と表記するのには理由がある。 よくある誤解に、疾患の分類と人間の分類を混同することである。疾患の分類は、あくまでもある人が有する、疾患についてであって、その人を分類するものではない。具体的にいえば、性同一性障害を有するからといって、その人が「性同一性障害者」という人間に分類されるのではない。もし安直に、ひとびとを有する疾患によって分類するとすれば、それぞれの人格を否定することにつながりかねない。個々の人格を忘れさせ、「あの人は性同一性障害者」「あの人はアルコール依存者」などと単なる人々のレッテル張りとなり、さらには差別を助長することにもつながるであろう。まず個々の人格があることを忘れてはならない。その人には職業人としての要素、家庭人としての要素、地域の人としての要素、ある年代の人としての要素などさまざまな部分があるのである。そのようなさまざまな要素が一つになりその人の人格が構成されているのである。そしてそのような人格を持つ一人の人間が、ある疾患を抱えているのである。すなわち、「性同一性障害者」という人がいるのではなく、「ある人が性同一性障害を抱えている」のである。 この考え方は、精神疾患を有する者すべてに適用されるものであり、DSM-IVの序に明記されている。また、性同一性障害に関する国際的なガイドラインであるStandards of Care15)でも"some persons with GID"などと表記されている。 以上の理由より、回りくどい言い方ではあるが、「性同一性障害を有する者」と表記している。 (5)性別適合手術 身体的性別特徴をジェンダー・アイディンティティに一致させるないしは近づける手術は英語ではSex Reassignment Surgery (SRS)と呼ぶが、その日本語訳にはこれまでさまざまな議論がなされてきた。assignとは生まれてきた赤ちゃんを男性か、女性に「assign」するという意味であり、日本語としては「判定する」と訳されてきた。reとは再びの意味であり、そのためにSRSは「性別再判定手術」と多く訳されてきた。しかし、実際には手術によって、何も判定などしないのだから、「性別再指定手術」や「性別再割り当て手術」などの用語を用いるべきだとの意見も出された3,12)。 これに対し、山内16)は「自らのジェンダーに少しでも近づけたいと望み、ジェンダーに適合させるための手術であるので、『性別再適合手術』という命名がふさわしい」とし、「性別再適合手術」という訳語を提案した。 これらの議論をふまえ、2001年の第3回GID研究会において、SRSの訳語が検討された。そこでは、「性同一性障害を有する者は身体的性別にはもともと適合感はないのだから『再適合』という言葉は不正確だ。『再』は必要が無く『適合』とすべきだ」、「『性別適合手術』というのはSRSの正確な直訳としては間違っているが、その日本語の意味するところの方がかえって、もとの英語より適切ではないか」等の議論がされた。結局、第3回GID研究った会において、SRSの直訳にはこだわらず、性別適合手術という用語が採用された。その後も、性別適合手術は使用の広がりをみせており、第二版でもこの用語を採用することとなった。 なお、東優子氏が私信で、英語圏の性同一性障害の専門家にこの日本語の用語(英訳ではSex Conforming Surgery)を紹介したところ肯定的反応がみられたという。 (6)MTF・FTM 性同一性障害を有する者の性別をどう表現するかは難しい。男性、あるいは女性といった場合に、身体的性別、社会的性別、ジェンダー・アイディンティティ、戸籍の性別などのどれを意味するかそのつど明示しないと不正確になる。あるいは治療前と治療後でも、いくつかの性別の要素は変わりうるであろう。さらに、どう性別を表現するかが、その人がどのような立場から、性同一性障害を有する者を捉えているかという価値判断を示すことにも通じやすい。 このような混乱を避けるために、第二版では性別の表現はMTF、FTMという用語を用いた。MTFとはMale to Female(男性から女性へ)の頭文字をとったものである。治療開始前の身体的性別が男性であり、ジェンダー・アイディンティティが女性のものをさす。FTMとはFemale to Male(女性から男性へ)の頭文字をとったものである。治療開始前の身体的性別が女性であり、ジェンダー・アイディンティティが男性のものをさす。 英語圏においては、Male to Female、Female to Maleと略さずに用いたり、略語の場合でも、MTF・FTM、MtF・FtM、mtf・ftmなどと、大文字小文字の使用法が必ずしも統一されているわけではない。が、逆にどの表記でも、専門家や当事者の間では広く理解されている用語である。日本においても、これらの表記は専門家や当事者の間では、すでに広く用いられている。 第二版において、MTF、FTMという略語を使用することは、この略語になじみのないものにとって混乱を招くことも危惧した。しかし、慣れるに従い、この略語のもたらす意味が理解されるものとして、使用することにした。 おわりに 以上、ガイドライン第二版における主たる用語の説明を行った。不幸なことに、我が国において、これまで性同一性障害に関する用語の用いられ方や、その理解が適切であったとは言い難い。そのために、性同一性障害に関する医学的、社会的、法的議論は誤った認識に基づき行われることもあった。今回の改訂を機会に、性同一性障害に関する用語が適切に用いられ、その理解が正確なものになり、それに基づいた実りある議論がなされることを期待したい。 文献 1)American Psychiatric Association: Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders Fourth Edition.1994(米国精神医学会: DSM-IV 精神疾患の診断・統計マニュアル.医学書院 ,1994) 2)Gooren,L.J.G.: Biological aspects of transsexualism and their relevance to its legal aspects. Transsexual, medicine and law. XXIIIrd Colloquy on European Law:117-143,1993(針間克己訳:性転換症の生物学的側面およびその法的側面への関連性.性同一性障害と法律.134-145,晃洋書房,2001) 3)針間克己:性同一性障害の心理療法.臨床心理学大系19.281-302,金子書房,2000 4)針間克己:「性別の決定」はいかになされるか −インターセックスと性同一性障害−.現代性教育研究月報,19(4):1-5,2001 5)埼玉医科大学倫理委員会:「性転換治療の臨床的研究」に関する審議経過と答申.埼玉医科大学雑誌,23:313-329,1996 6)山内俊雄編:性同一性障害の基礎と臨床,123-137,新興医学出版,2001 7)柏瀬宏隆:性別同一性障害.新版精神医学事典,476-476,弘文堂,1993 8)東海林保:いわゆる性同一性障害と名の変更事件,戸籍訂正事件について.家庭裁判月報52巻7号1項,2000 9)Zhou J.N.,:A sex difference in the human brain and its relation to transsexuality, Nature,378:68-71,1995 10)Landen M,: Transsexualism : Epidemiology, phenomenology, regret after surgery, aetiology, and public attitudes. Doctoral thesis from the institute of Clinical Neuroscience, Section of Psychiatry, Goteborg University,1999 11)針間克己:新時代のジェンダー概念.こころとからだの性科学.49-68,星和書店,2001 12)針間克己:性同一性障害に関する基本的用語及び概念への疑問と意見.日本性科学雑誌, 18,19-23,2000 13)Money,J. & Tucker P.,1975, Sexual Signatures: On Being a Man or a Woman, Little, Brown and Company (朝山新一他訳:性の署名.問い直される男と女の意味,人文書院,1979) 14)吉永みち子:性同一性障害−性転換の朝.集英社,2000 15)The Harry Benjamin International Gender Dysphoria Association's Standards of Care for Gender Identity Disorders, Sixth Version 16)山内俊雄:性転換手術は許されるのか 性同一性障害と性のあり方,明石書店,1999 |