臨床精神医学 2001年第30巻7号掲載

性的異常行動

針間克己

はじめに

 正常、異常を区別するには平均規範と、価値規範を用いる方法がある。平均規範を用いれば、集団からの隔たりにより正常、異常を判定する。価値規範を用いれば、望ましい価値を目安に正常、異常を判定する。キリスト教的倫理思想が支配的だった時代・文化では、性行動における正常、異常は、この平均規範と価値規範が一体となり判定されていたように思われる。すなわち、生殖可能な男女間で生殖目的に行われる性器の結合こそが、大多数の行動であり、かつ倫理価値的にも望ましいという意味で正常であり、それ以外の性行動は平均から逸脱し、倫理的に望ましくないという意味で異常行動であった。
 しかし、現代では、性科学の進展で人間の多様な性行動が明らかになってきたことや、性的権利思想の出現に伴い価値規範が変化してきたことなどにより、このような性的異常行動への考えは変わりつつある。今回はDSM(精神疾患の診断・統計マニュアル)におけるパラフィリアの定義を検討していくことで、性的異常行動の今日的理解と筆者の考えを示していく。


(1)DSM-IVにおける定義
 DSM-IVはパラフィリア(性嗜好異常)を次のように定義する。

基準A:少なくとも6ヶ月間にわたる、1)人間ではない対象物、2)自分自身または相手の苦痛または恥辱、または3)子供または他の同意してない人に関する強烈な性的興奮の空想、性的衝動、または行為の反復である。
基準B:行動、性的衝動、または空想は、臨床的に著しい苦痛、または社会的、職業的、または他の重要な領域の機能における障害を引き起こしている。

 この診断基準のAは、基本的には、パラフィリアが性倒錯といわれていた頃からの、古くからある考え方である。すなわち、平均から逸脱していると考えられ、生殖へと結びつかないことより価値規範からも望ましくないと思われてきた性行動特徴である。  過去の性的行動異常に関する疾患基準と比較して、特徴的なのは診断基準Bである。この基準は同性愛に関する議論に由来する。


(2)同性愛をめぐる議論

 1970年代、ゲイムーブメントの高まりの中、アメリカ精神医学会は、同性愛を精神病理的異常と見なす立場と正常と見なす立場に二分された状態であった。議論の中で、人間の性交は、多様な目的でなされ、生殖に結びつかないからといって、その性行動を即座に異常とレッテル張りするのはおかしいとの考えが示された。この考えにより同性愛を異常とする根拠は乏しくなり、別の根拠として同性愛者は人格的な問題を抱えているとから異常とすべきとの主張がされた。一方で、同性愛者が異性愛者と比較し、特別多くの人格的問題を抱えているのではないとの主張もされた。結局、一種の折衷案として以下のように定義される「自我異質性同性愛」が提唱され、1980年、DSM-IIIにおいて採用された。

基準A:患者は、異性愛的興奮が持続的に欠如しているか微弱であって、異性愛関係を欲しながら、それをつくったり維持したりすることが著明に障害されていると訴える。 基準B:同性愛的興奮の持続したパターンがあり、患者ははっきりとそのことが嫌で、持続的な苦悩の源泉であったと述べる。

 この基準Bで記されているように、同性愛という一般的ではない性指向を持つことが即疾患になるわけではなく、そのことに苦悩を抱いている時に始めて疾患と見なされるという、疾患概念がこの時に生まれたのである。
 しかしながら、この自我異質性同性愛という疾患概念もその後、「同性愛者の苦悩は、社会が同性愛者を異常だとのレッテル張りをしているがゆえの当然の反応に過ぎない」との批判を受け、1987年のDSM-III-Rでは削除されることとなり、「同性愛」という疾患概念は、DSMから完全に姿を消すこととなった。


(3)パラフィリアを持つものの苦痛は本来的なものか?

 同性愛に対する議論はその後、精神疾患全体の概念にも影響を与えることとなった。DSM-IVでは、本質的には病的ではなく、「精神疾患」という診断が適切でないような人に見られる状況での、臨床的意義についての基準として、「臨床的に著しい苦痛、または社会的、職業的、または他の重要な領域の機能における障害を引き起こしている」が含ま
れている。パラフィリアの診断基準にも、ここまで述べてきたように、診断基準Aと共に診断基準Bがある。診断基準Aすなわち生殖に結びつかない性行動をするというだけでは診断基準を満たさず、さらに診断基準Bをも満たして、はじめて精神疾患と診断されるのである。
 しかし、ここで、同性愛を巡る議論を思い出せば、「パラフィリアを持つものの苦痛や障害は、同性愛と同様に、異常だという社会からのレッテル張りに対する、当然の反応ではないだろうか?」という、疑問がわいてくる。社会的差別に対する反応であるならば、パラフィリアのある種のものは、精神疾患としては見なされるべきではないということになるのではないか?
 このように価値規範の観点から、DSMにおける性的異常行動の疾患概念・定義の変遷を見ていった場合、「生殖に結びつかないので望ましくない」という考えから、「本人が苦悩や障害がある点で望ましくない」との考えに移り、さらにその考えも、「その苦悩は差別への正常な反応であり異常とすべきではない」と批判され、ゆらぎつつあるというのが現状といえるのではないだろうか。



2.性的暴力行為

(1)性的暴力行為とは何か?

  性的暴力行為とは、一般的には、法律における、強姦罪やわいせつ罪に該当するものを指すと思われる。強姦罪は、刑法第二十二章第一七七条に以下のように記されている。

 暴行又は脅迫を用いて一三歳以上の女子を姦淫した者は、強姦の罪とし、二年以上の有期懲役に処する。一三才未満の女子を姦淫した者も、同様とする。

 ここで問題となるのは、加害者が被害者に対して用いる暴行・脅迫の程度である。弁護士の角田17)によれば、法律の多くの教科書では、強姦に用いられる暴行・脅迫の程度は、1949年の最高裁判例に従っている。それによると、「強姦罪になるための暴行・脅迫は相手の犯行をいちじるしく困難にする程度のものであることを要し、かつそれで足りる」ものであるという。このことは逆にいえば、「犯行をいちじるしく困難にする程度ではない」と裁判官が判断したときは強姦罪にはならないことになる。
 しかしながら、筆者としては、日本における法律論にはとらわれず、米国の「少年性非行に関する特別委員会」8,14,15)の定義によって、性的暴力行為の概念とすることにする。

 少年性非行に関する特別委員会による性的暴力行為の定義
1)同意がない、または
2)平等性がない、または
3)強制による
全ての性行動。

 上述した性行動は、個人の性的権利を侵害するものであり、法的議論はともかくとして、現代の性行動に関する価値規範としては望ましくないものとしてと判断されるであろう。


(2)性嗜好に偏りを伴う性的暴力行為は性嗜好異常か?

 性嗜好に偏りを伴う性的暴力行為と性嗜好異常はしばし混同される概念である。確かに両者の関連性は深い。例えば、露出症や、窃視症、窃触症においては、多くの場合、相手の同意が得られないままに行われる。あるいは小児性愛の場合、両者の関係に平等性はなく、同意がなかったり強制的な性行動が行われる。
 しかしながら両者は同一の概念ではない。全ての性嗜好異常が性的暴力行為というわけではない。服装倒錯的フェティシズムやフェティシズムは多くの場合、個人的に完結する性行動であり、性的暴力行為にはならない。あるいは、性的暴力行為の伴わない性的サディズム、性的マゾヒズムの関係性もありうるであろう。
 また、DSM-IVの定義を厳密に見た場合、性嗜好の偏りを持つ性的暴力行為が性嗜好異常に該当するか否かは、明白には分からない。性的暴力行為をしたからといって、性嗜好異常の診断基準を満たすとはどこにも明記されていない。診断基準Bについて福島は「機能の障害の中には、当然ながら犯罪を犯すことによる本人の不利益も含まれている」と述べている。しかしながら、性的暴力行為が他者に知られない場合、必ずしも本人にとって不利益だとは断ずることは出来ない。この点に関して、小児が被害者となる性犯罪の専門家であるMarshall12)は「この診断基準は、もしある人が小児に性暴行をくり返し、その行動が反復される衝動や空想によって動機づけられているが、逮捕されることもなく、その行動により苦悩することもなければ、その人は小児性愛者ではないというのか?そんな診断基準を性犯罪者に適用するとしたら、馬鹿げている。」と論じている。
 また診断基準Aの「少なくとも6ヶ月にわたり」という部分も問題となる。性嗜好に偏りを持つ性犯罪者は必ずしも自分の性的行動や衝動や空想を面接者に明らかにするとは限らない。6ヶ月以上にわたる性嗜好を明らかにすることは容易ではなく、診断基準Aを満たすことを明確にするのは困難なこともある。
 このようなDSM-IVの診断基準への批判は、性嗜好障害の疾患概念の転換を含意していると思われる。すなわち、過去においては「生殖に結びつかない」から異常であったのが、現在のDSM-IVでは「本人の苦悩や障害がある」から異常となり、さらに「性的暴力行為である」がゆえに異常とすべきと、変化してきているのではないだろうか。


(3)強姦は性的異常行動か?

 性的暴力行為の代表が強姦であることはいうまでもないであろう。しかしここで、素朴な疑問がわく。強姦は性的異常行動ではないのか?
 強姦を性的異常行動の範疇に入れての議論はこれまであまり多くはなかったように思われる。DSM-IVの性嗜好異常においても、よく読めば、基準Aに「3)子供または他の同意してない人、に関する」と記されており、強姦を含んでいるとも読めないこともない。しかしながら、実際の具体的な疾患リストには載っておらず、DSM-IVが強姦をどのように考えればよいのか不明である。
 筆者の力不足もあり、強姦がなぜ性行動異常として見なされてこなかったのかは文献的にはよくわからない。しかしながら、推測すればその理由は明白ではなかろうか。異常でないということは平均的規範や価値的規範に照らして正常だったと考えられていたのではなかろうか。強姦の正常性を支持するかのような「男なら誰でも強姦したいと思うものだ」「女には被強姦願望がある」「強姦ぐらい出来て男は一人前」などの言説16)はよく聞くところである。また、日本における実際の裁判の判例17)においても「相手に抱きついて押し倒し、パンティを脱がせ、馬乗りになるなどの行為は、強姦にいたらない姦淫においても一般的に伴うものであるともいえるのである」と述べているものもある。このようなことを考えると、暴力等を用い相手の同意なく性交をすることは、生殖につながる男性的行為として文化的に正常なものとして許容されてきたのではないか、と思える。
 だが、最近では強姦を性的異常行動と見なす考えも現れてきている。例えば、1997に発行された、性嗜好異常の理論、評価方法、治療方法を詳細に述べたSexual Deviance11)の中でLawsは、「われわれは強姦への魅力を性嗜好異常とみなす。それゆえ、強姦の章を設けた」と述べ、他のDSM-IV疾患リストに出ている性嗜好異常と同じように扱っている。


おわりに

 1999年香港で開催された第14回世界性科学会議において採択された性の権利宣言9,10)は、その権利の第一項目として、「性的自由の権利:性的自由は、個人が性的な潜在能力の全てを表現する可能性をもたらす。そしてこれは、人生のどんな時どんな状況における、あらゆる形の性的強要、性的搾取、性的虐待をも排除する。」と述べている。すなわち、人はさまざまな性的な行動や表現をする自由がある一方で、他者からその性的自由を奪われたり、強要されない権利を有しているということである。ここで述べられている権利を尊重し、遵守することは、「生殖につながる男女間の性交こそが望ましい。そのためには、男性から女性への力づくの性交もかまわない」という過去の性の価値規範にかわる、現代の性に関する望ましい価値規範といえるのではないか。
 この価値規範に基づき判断した場合、「生殖目的にそぐわない」という理由で、異常とされてきた従来の性嗜好異常の中で、性的暴力行為を伴わないものは、今後は同性愛と同様に精神医学の対象ではなくなっていくように思われる。むしろ、他者の性的権利を損ねる性的暴力行為こそが、現代の性的異常行動として、精神医学が問題にしていくものとなるのではないだろうか。